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QT PROモーニングビジネススクール > ブログ&ポッドキャスト一覧 > 中国①歴史 (企業財務 M&A/村藤功)

中国①歴史

村藤功 企業財務 M&A

12/11/16

今日は中国の歴史、特に清代以降についてお話しします。

 清は、その晩期には欧米列強に分割されたこともあって、弱い王朝のように見えます。しかし一方でこの時代には、中国の人口が一億人から四億人へ増えており、中国の歴代王朝の中でも強い王朝だったともいえます。人があまりに増えすぎたために、多くの人びとがフィリピンやマレーシア、シンガポール、タイ、インドネシアへ出て行き、華僑となりました。

清が分割されるようになったきっかけは、イギリスとのアヘン戦争にあったと言われています。しかし、清としては、その中心よりはるか南方で起こった戦争であったため、当初は実感を抱けなかったようです。しかし、義和団事件や日清戦争、日露戦争の時期になると、いよいよ危機感を感じ始めます。

義和団事件の頃には、気がつかないうちに東北地方をロシアに占領されてしまいます。日本が日露戦争でロシアを追い払っていなければ、中国の東北地方は今なおロシアの一部だったでしょう。そういう意味では、東北地方は、満州人の国があったり、中国のものだったり、朝鮮の一部だったりと、いろいろな人びとが行き来する舞台でした。ですから、日本が満州国をつくったことも、そこまで不自然なことではなかったのです。しかしその後日本は、北京や上海へも進出するなどしたため、困ったことになったわけです。

この清が、中国史上最後の王朝となりました。その次に、孫文が南京を首都に中華民国をつくりました。しかしその範囲は中国全てに及ぶものではなく、北方では袁世凱が軍事力を持っていました。欧米列強から中国をとられないためには袁世凱に任せていた方がよいということで袁世凱と孫文は合意し、清は滅亡します。これは、日本で江戸から明治へ至る時と同じように、無血革命でした。

中華民国は、その後も中国全土を支配することはありませんでした。第一次世界大戦後には、日本が中国に対して21か条の要求を出します。これには、日本が清と約束したことを、清の後継である中華民国が守るかどうかを不安視したという背景がありました。それに反対して、中国では五・四運動が起こります。ソ連がコミンテルンを通じて、共産党拡大工作を始めるのもこの時期です。ソ連の支援下で起こった第一次国共合作時には、国民党の構成員は5万人、共産党の構成員は300人しかいませんでしたが、現在では共産党の構成員は7,800万人と言われています。そもそも第一次国共合作とは、ソ連のコミンテルンが共産党の面倒をみるよう国民党に言い、国民党が共産党を取り込んだというものでした。この時は、日本を相手にしていたというわけではなく、袁世凱の後を継いだ、軍閥の北京政府に対抗するための措置でした。

その後31年には、柳条湖事件で張作霖が爆殺されます。張作霖の息子の張学良は、東北大学をつくったことでも知られますが、国民党の親分である蒋介石に対して国共の内輪揉めをやめ、日本に対して共に戦うことをもちかけました。ここに、第二次国共合作が成立します。国民党の蒋介石は、当初は日本とはあまり戦いたがっていませんでした。しかし、国内外でさまざまな事件が起こり、またロシアからの干渉も多くあったため、共産党と組んで日本と戦うことにしたのです。

日本は満州だけでなく、盧溝橋で支那事変を起こし、上海へも進出し、日中戦争へ至るのです。この時の日本人の死者は40万人、負傷者は100万人でした。一方中国人の死者は900万人、負傷者は500万人と、大体日本の十倍の人びとが死んだり怪我をしたりしています。この頃中国はろくな武器を作れなかったので戦いにならなかったのです。このようなバックグラウンドをもっているためか、現在においても、日本軍である鬼を追い払うというテーマのテレビドラマが毎日放送されていますし、反日行動が異様な盛り上がりを見せることがあります。

分野: 財務戦略 |スピーカー: 村藤功

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