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QT PROモーニングビジネススクール > 過去の記事一覧 > 第6回「政策のための科学(2)」(科学技術・イノベーション政策/永田晃也)

第6回「政策のための科学(2)」(科学技術・イノベーション政策/永田晃也)

11/08/10

 前回は、近年の科学技術・イノベーション政策の中で推進されつつある「政策のための科学」を取り上げ、それが「客観的な根拠」に基づく科学的な政策形成を志向するものであること、その動向が2005年にアメリカの大統領科学顧問マーバーガーが提起した問題意識を起点としていること、現在日本では文部科学省によって科学技術イノベーション政策における「政策のための科学」という事業が推進されていること、等についてお話しました。そして、科学的な政策形成という課題は、こうした近年の政策アジェンダの中ではじめて浮上してきたのではなく、これまで繰り返し課題として取り上げられてきたということに留意しておきました。

 今回は、この課題が繰り返し提起されてきた理由を手掛かりに、政策形成の科学性とは何かについて考えてみたいと思います。少々哲学的な議論になりますが、ビジネスの意思決定問題にも関連する重要な論点が含まれていますので、ひとつご一緒に考えてみてください。

 科学的な政策形成が、政策担当者や政策研究者の間で課題として標榜されるとき、そこでは素朴な科学観が共有されているように見えます。すなわち、科学的に妥当な認識とは、「客観的な根拠」に基づくものだという科学観です。しかし、政策形成ばかりでなく様々な社会的合意形成の場面にみられることですが、いくら客観性が担保された根拠を積み上げても、それが妥当な根拠として採用されるとは限らないという事態がしばしば生じます。何故でしょうか。

 今日、科学技術活動のアウトプットである学術論文や特許などについては、非常に大規模なデータベースが利用できるようになっており、また政策評価に応用できる統計学的手法も着実に進歩しています。そこで、ある科学技術政策の効果については、それらのデータと分析手法を活用することによって、客観的とみられる証拠を提出することができるかも知れません。

 ところが、そこで分析の対象となっている政策プロセスという社会的現象は、刻々と変化しており、またその過程で多様な要因と複雑に相互作用していくものですから、分析によって切り取られてくる証拠—evidence—は、どうしても限定的なものにならざるを得ません。したがって、社会的な現象に対する認識の客観性は、いわば窮まりのないものであって、ある証拠が客観的に妥当なものであるか否かは、一義的には確定できないものだということになります。しかし、そのような状況の下で政策担当者は、例えばある政策を採用するか否かという意思決定問題に対処しなければなりません。その決定プロセスにはステークホルダー(利害関係者)間のコンセンサス、政治的な判断、政策担当者の世界観などの多様な要因が介在することになります。ここで重要なことは、そもそも証拠の客観性という価値中立的な基準のみで政策的な意思決定を行うことは、原理的にできないのだということです。

 念のために付け加えておきますが、だからと言って膨大なデータベースと統計的な手法に基づく政策分析が無意味なわけではありません。そのような政策分析の蓄積は、いかに社会的な現象に対する認識の客観性が窮まりないものであっても、むしろそれだからこそ我々の社会認識を深める上で不可欠だと言えるでしょう。問題は、そのような根拠の客観性を求めるアプローチが、超越的な価値を持つものであると思いなすことから生じます。現実の政策決定プロセスでは、根拠の客観的な価値は常に相対化されます。素朴な客観主義によるアプローチは、その相対化のメカニズムを捉えることができないため、積み上げた政策分析の結果が妥当な根拠として採用されることに失敗すると、いわば振り出しに戻るしかありません。それが、科学的な政策形成という命題が繰り返されることになる理由ではないかと、私は思います。

 では、どうすれば、このような一種の悪循環を断ち切ることができるでしょうか。

 ここでの課題は、認識の客観性を相対化する政策決定プロセスそのものの妥当性に言及する回路を持つということに集約されるでしょう。これをもう少し具体的に述べてみます。

 前述のように、現実の政策決定プロセスは、客観主義的な価値のみを基準に作動しているわけではありません。そこには、政策に関連する多様なステークホルダーの間で共有された主観、いわゆる間主観的(inter-subjective)な価値を基準にしているフェーズが存在します。要するに、客観的な根拠を探索するフェーズとは別に、根拠の採否を決定する間主観が形成されるフェーズがあるということです。前者では根拠の正当性(justness)が問われ、後者では根拠の正統化(legitimation)が行われると言い換えても良いでしょう。

 「政策のための科学」というプロジェクトを、これまでと同様の繰り返しに終わらせないためには、これらのフェーズをカバーしておかなければなりません。例えば、ある政策の評価を行う際、その効果に関する客観的な証拠を積み上げるだけではなく、その政策が採択され、実施されたプロセスの妥当性を問い直すという二階建ての構造で取り組む必要があると思います。それが、政策プロセスが自己言及的な回路を持つということです。

 さて、今回は科学的な政策形成という課題が繰り返し提起されてきた理由について考えてきましたが、実は同じ課題の繰り返しと言っても、その文脈は異なっているわけです。現在推進されている「政策のための科学」という企ては、科学に対する素朴な信頼感、期待感を表していますが、それは政治に対する今日の不信感と表裏の関係にあるように見えます。

 しかし、3月11日の大震災は、予測を大きく超える被害をもたらし、それは現在の科学技術に対する素朴な信頼感を傾かせることになりました。それは今後、「政策のための科学」にも微妙な陰を落とすことになるかも知れません。

分野: 永田晃也教授 |スピーカー:

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