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QT PROモーニングビジネススクール > 過去の記事一覧 > 映画に学ぶ経営学(6)小津映画に見る日本人の社交と飲食(経営学/久原 正治)

映画に学ぶ経営学(6)小津映画に見る日本人の社交と飲食(経営学/久原 正治)

11/06/09

今日は小津安二郎映画にみる日本人の社交と飲食ということで、2つの映画を中心に小津安二郎の映画を見ていきたいと思います。

■東京物語 

まずは『東京物語』。これは1953年の映画です。小津安二郎の映画を見るとその時代の背景がよく分かります。この映画では、日本が戦後、経済が復興していく中で、その時代を生きている家族や会社の人たちがどういう生活をしていたかということがすごくよく分かるわけです。この東京物語というのは1953年の映画ですから、戦後間もない頃の映画なのですが、現代の日本がおかれているものを小津安二郎がある程度ここで見通していたような気がします。

■東京物語は核家族化と住宅難物語 

具体的にどういうことなのかというのを、映画を振り返りながらお話します。簡単にいうと、東京物語というのは家族の崩壊、それから地域社会の崩壊の話です。笠智衆と東山千栄子が老夫婦として尾道にいて、子供達は1人を除いて皆、東京や大阪に出ています。東京に出ている子供達を訪ねて行っても、子供達からはもうあまり相手にされなくなっており、寂しくまた尾道に帰って来るという映画です。

これは1953年の映画ですが、今こういう家族の形態は多くなっています。すなわち、かなり早い段階で日本の核家族化、地方と東京との関係、家族の関係の崩壊を非常に明快に描いているということです。

映画の中で、死んだ次男の嫁(原節子)のアパートが一間4.5畳くらいで、ちゃぶ台が真ん中にあるというシーンがあります。1953年ですから、東京に出た子供達というのは住宅難です。そこに親が田舎から訪ねて来ても、なかなか入れるような場所がないわけですね。隣の家から醤油や砂糖など足りないものを借りてくるような時代です。

実際のシーンでは、原節子が戦死した次男の嫁さんで狭いアパートに住んでいて、親が来たら酒がないから隣から借りてくる。酒だけ借りてきたら、今度はとっくりなどがないからまた借りに行くという話になります。

■秋日和 

次が1960年の小津安二郎作品、『秋日和』です。これは60年と53年の違いが出ています。60年になると高度成長に入ってくるわけです。『秋日和』というのは、高度成長の中で、割と成功した東大出の同級生たちが、丸の内の会社でのんびりと会社員生活をやっていて、その死んだ仲間の嫁の娘の縁談の世話を延々とやるような話です。

1960年代、前の紹介した東京物語から7年しか経っていませんが、もう高度成長期で大きく日本の生活が変わっていったということです。今の中国のようにあっという間に日本は成長しました。中国と違うところは、日本は非常に成熟した成長でした。何故かというと、今見ても、今よりもいいものを食べているように思えるからです。それから、1960年代というとガツガツ働いていたのかなというイメージもあると思いますが、会社の人たちは皆のんびりと働いていて楽しそうです。

日本がなぜその後ガツガツするようになったのかというと、やはりグローバリゼーションのようなものがあったからだと思います。当時は、丸の内で勤めている人たちというのはすごく優雅です。重役になる佐分利信は、自分の個室で昼間からゴルフの練習をしていたくらいです。典型的な日本の大企業型のようなイメージですね。それで友達が訪ねて来ては、知り合いの縁談の話とかばかりやっています。

■秋日和は食べる映画 

そして仕事が終わったら皆で飲みに行こうということになります。この飲み食いがまたすごいです。数えてみると、飲み食いのシーンが13回出てきます。つまり、1時間半くらいの映画の7割くらいは飲み食いをしているということになります。そのため、飲み食いをしながらしゃべっている内容が、映画で伝えたいことになります。そこでしゃべっているのが日本の伝統的な社交というわけです。

友人の娘の縁談をどうしようか、就職の世話をどうしようか、あるいは誰かが亡くなったらこの法事をどうしようか、このようなことが日本の社会の中心の話題であり、企業社会と家族の社会が密接につながっていたということになります。

■小津安二郎 

この小津安二郎は、深川の大きな肥料問屋の生まれの江戸っ子でしたが、ご両親の関係で田舎の松坂に中学生くらいで移ります。その頃からアメリカ映画が好きになり、14歳で監督になろうと決心しました。

その後すぐ、20歳くらいで松竹に入り、シンガポールに戦時中派遣されます。そこに大量のアメリカ映画があり、『風と共に去りぬ』などを一生懸命見て、アメリカの映画の作法をきちんと学びました。ただ、作法は学びましたが、それは真似とは違います。元の作法に彼なりの色々なストーリーをうまく入れて改善したような形です。ですから、海外に受けるような映画になっています。アメリカから作法を仕入れて、それを日本的なストーリーの中に作り込んだというところに小津映画の価値があるような気がします。

■小津的なもの 

小津が描いていたものには共通するものがあります。まず、日本的な家族とか企業の共同体関係がだんだん崩壊していくのではないかという予感が大きなテーマになっていた気がします。実際に共同体、特に地方が崩壊していきました。

ところが、今回の東日本大震災では共同体に対する考えに変化が出ています。昭和初期中期、まさに初めに紹介した東京物語で出てくる、隣からお酒を借りて来るようなことが、実際に地震の後東北地方に出てきています。本当に皆、お互いに助け合って、日本の良さというものを再認識している。小津的な共同体が見直されているということでしょうか。

分野: 久原正治教授 |スピーカー:

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